無駄を愛でるということ「形式的合目的性の美」
私はめちゃくちゃ合理主義で、
かなり損得勘定で物事を判断するタイプだと思う。
できるだけ効率的に生きていきたいし、
これって自分の為になるのか?という点が無意識に判断基準になっている。
会社では定期的に、匿名で周囲の人を評価するサーベイをやってるんだけど、
本当に人のことしっかり見ている人が多く、毎回図星を突かれている。
1年目の豆腐メンタルの時は泣いたもんね。
「判断基準が損得勘定」「評価を気にしすぎて内向きに仕事をしている」
「事業価値をもっと考えろや」
まあ、文章の癖とかで大体書いた人はわかるんだ。
生活動線が効率的だと気持ちいいし、
雨の日に家にいないとできないことをしている効率の良さに機嫌が良くなったりもする。
誰か他人に親切にするにしても、
情けは人の為ならず、、と言い聞かせて行動に移すことだってあるくらい。
もちろん家族や好きな人たちは自分と等しい存在になるので、
そういう人の為なら無償で尽くしたくはなるんだけど。
優しくないのは分かっている、、
でも意外とそういう人はいるんじゃない?とも開き直ってる。
一方で、そんな私はある無駄なことが好きです。
例えば料理の端っこに付いてくるきゅうりの飾り切りや、壁の細かい透かし模様、
スターバックスでコーヒーを買った時に書いてくれるメッセージ、
旅館に泊まった時に置いてある、白鳥の形に折られたタオル
▼スタバのメッセージ。ほっこり。
時間も人件費、新人への教育コストもインク代もかかる割に、
それによって総合的な満足度が変わったり、
ましてそれを目当てに来店する人なんて
ほとんどいないんじゃないかなと思う。(スタバは一人いたし、意外といるかも)
多分、これをすることで数字としてはビミョーに損している。
もちろん神は細部に宿る、ということで。
おもてなしの意図を伝えたり、
全体を通してブランディングの意図があったりするから
必要なことなんだろうけど。
まあ、その行為が長期的にみて損なのか得なのか、という話は一旦置いといて。
私はそういうものがとっても好ましい。好き。
長年、その感覚を上手く言語化できておらず、
「粋」とか「遊び心」かな…?と思っていたところ、
会社での飲み会で同期にバシッとラベリングしてもらいました。
「あー、カントの形式的合目的性の美だね。」
同期は変わったやつだなと思ってたけど、めちゃくちゃ知的なやつだった。
よくよく話を聞くと、
合目的性とは、目的があるという性質(つまり合理的なもの)であり
形式的とはそのままで、形式的には、表面上は、というような意味
つまり、形式的合目的性というのは
「本当は目的はないけど、あたかも目的を持っているように見えること」
そして形式的合目的性の美は、甲田純生の『判断力批判』にて下記の通り説明されている。
「美しい対象が、あたかも我々に快を与えるという目的をもっているかのように見える、ということであり、これが美的対象のもつ形式的合目的性である。」
きゅうりの飾り切りの例で言うと、
顧客に美しいと感じてもらおうとして(再来店を狙って)切られているように見えるけど、
実はそれを目的にしてはおらず、ただ飾り切りされているだけ、
という状態が好ましいんだなあ、と納得。
合理的じゃないことに注力できない自分は、
美しくあることを目的としていない美しさ、それを実現する労力に
一種の憧れのようなものを感じているようです。
10数年のモヤモヤが一気に晴れた夜でした。
それにしても私のグダグダな説明を言語化した同期、すごすぎない?